日々の新聞社IWAKI BIWEEKLY REVIEW・


  HIBI NO SHIMBUN      2012年1月15日(日)  「NO.213」

  鈴木さん一家の沖縄避難      口を閉ざさず現状訴えよう
                          ヨード臭から逃れて七ヶ月


 
ギャラリー創芸工房の鈴木忠壽・智美さん夫婦が約7ヶ月にわたる沖縄・南風原での避難生活を終えて帰ってきたのは、昨年10月30日だった。それから2ヶ月。正月からは恒例の「日本の古布展」を開き、復旧に向けてひとつ階段を上がった。しかし、原発事故後の違和感はぬぐえない。それは「あんなにすごいことがあったのに変わっていない不思議さ」でもある。2人に、この10ヶ月について話を聞いた。

■混乱
 三月十一日。創芸工房では高野正晃さんの彫刻展が開かれていた。突然、高野さんの携帯が大きな警告音を発した。横揺れが激しく、展示されていたテラコッタ(素焼き彫刻)が展示台ごと床に落ちた。二階にある常設展の作品もバラバラと落ち始めた。揺れは「これでもか」というほど長く続いた。
 外に出てみるとアスファルトが地割れしていて、水が噴き出す液状化現象が起こり、電柱は何本も根本から折れた。ギャラリー脇にある自宅は基礎が埋没して傾き、薪ストーブが動いて煙突が取れた。食器棚もメチャクチャで、生活の場をギャラリーに移さざるを得なくなった。
 かろうじて電気だけは点いたが、ガスも水道も使えなくなり、余震が断続的に続いた。テレビがないので情報手段はラジオとインターネットしかなかった。その日はギャラリーで寝た。
 それでも十二、十三とギャラリーを開いた。客もぱらぱら来た。そして福島第一原発二号機で水素爆発が起こった。十二の夜、窓から空を見ると雲が黒くて不気味だった。十三日は朝からひっきりなしに電話が鳴った。原発事故や放射能に対する不安がわけもなく襲ってきた。忠壽さんは、ついに電話に出るのがいやになり、コンセントを外した。
 そして十四日、三号機で水素爆発。「屋内退避」「自主避難」の情報が錯綜するなかで、いったんは家に籠もることにしたが、どうしても不安を拭い去ることができず、その日の午後十一時に愛犬ハナを連れて国道6号を南下した。
 夜中の二時ごろに水戸駅付近に着いたのはいいが、作家たちの連絡先などデータが入ったバックがない。混乱していて忘れたらしい。悩みに悩んだ末に、何とかガソリンを入れて、いわきに戻ることにした。水戸で朝早くから並んでガソリンを入れ、いわきに戻ったのが十五日の午前九時半。東京方面へ向かう反対車線は、避難する人たちの車で大渋滞だった。データの入ったバックは玄関のところにあった。
 そのころから、ヨードチンキのような消毒臭い異臭が気になり始めた。ラジオでは避難所になっている光洋高校で支援を呼びかけていた。入院患者が弱っているという。すぐ灯油と毛布を届けた。玉川中が避難所になっているというので夕方に出かけたが、玄関の前まで行っても入れない。街は車がほとんど走っていないうえに灯りもなく真っ暗。結局はギャラリーに帰ってきてしまった。
■異臭
 その日の夜十一時半ごろ、忠壽さんの体を異変が襲った。あの、気になっていた異臭で呼吸ができにくくなった。顔色が変わって呼吸困難に陥り、目の焦点が合わなくなった。智美さんは「大変だ」と思って救急車を呼んだが、来てくれない。その日から、断続的に異臭との戦いが始まった。
 忠壽さんは木造のギャラリーをできる限り密閉し、空気が入らないようにした。しかし十六日の夕食後、さらに異臭渦に見舞われ、水を含んだガーゼを鼻と口に当て続けた。肺が熱くなって息苦しい状態が続き、死の淵に追い込まれたような気がした。翌十七日に磐城共立病院で診察を受けると、診断は感染症。放射能との関係について尋ねたら、あっさりと「いわきは問題ない」と言われ、安定剤のような薬を処方された。でも納得できなかった。
 ギャラリーがあるのは、鹿島町走熊。被害に遭い、普通に生活できる状態ではない。周囲の勧めもあって常磐岩ヶ岡の実家で世話になることになった。実家には井戸があり、そのころは水道も復旧していたので、風呂にも入れた。心身をリフレッシュしたせいか、十八、十九は異臭の恐怖とは無縁で過ごすことができた。
 みんなひと安心し、「じゃあ、いわきを少し離れて温泉にでも入りに行こう」ということになった。二十日午前九時半、車二台で栃木県の塩原温泉へ向かった。常磐ICから磐越道へ抜け、郡山に入ったあたりからあの異臭が鼻を突くようになり、愛犬も車内で騒ぎ始めた。二人とも鼻にハンカチをあてながらやり過ごした。東北道に入ると異臭が消えたので、ガソリンを入れて塩原の温泉宿に入った。
 宿は山頂付近にあって、雪もまだ残っていた。ひと風呂浴びて夕食、と思ったら、夜の八時ごろ、また異臭が襲ってきた。どうしても我慢できず、鈴木さん夫妻はハナを連れて、あわただしく宿を出た。山を下って那須・塩原ICをめざしたが、閉鎖されていて通れない。管理事務所に電話すると、ひとつ南の矢板ICなら大丈夫かもしれない、と言うのですぐ向かい、現場にいた警察官に「避難のための緊急車両」として通してもらった。
 東北道から北関東道に入り栃木、群馬と進行し、上信越道から長野道へと入った。栃木、群馬と消えなかった異臭は、長野県あたりから薄くなり、松本に入ると、まったく臭わなくなった。それまでは、ただ臭いから逃れるためにあてもなく南へ南へと走ったが、松本に着いて、「沖縄に向かう」という腹が固まった。
 広島に住む知り合いの金属工芸家と連絡を取り、沖縄へ車で渡る方法を尋ねて、フェリーの予約を取ってもらった。そして、ひたすら鹿児島へ向けて、中央道ー東名ー中国道ー山陽道ー九州道とジムニーを走らせた。一般道には一度も下りない高速道だけの旅。そして二十二日昼前に鹿児島に着いた。二十日の朝にいわきを出て、二十二日の昼前に鹿児島着。約千五百キロ、四十時間を費やしての異臭からの逃避行だった。
■沖縄にて
 那覇行きのフェリーは夕方六時に出港した。「犬はゲージがないと乗れない」ということだったが、何とか交渉して荷物扱いにしてもらい、車のなかにいることになった。フェリーは五ヶ所ぐらいに停泊して人と荷物を運ぶので、一日以上かかる。不眠不休による強行軍だったせいか、忠壽さんが体調を崩した。微熱と発疹、さらに船酔いが重なり、夜は眠れなかった。
 朝になって少し慣れ、甲板で風に吹かれていると、沖永良部島で仕事をしている人と知り合った。沖永良部に住むことを勧められたが、「やっぱり沖縄へ行きます」ということになり、親切に那覇市内のホテルを予約してくれた。
 那覇新港に着いたのは二十三日の夜八時半ごろ。九時半過ぎにチエックインし、部屋に入ると、自分たちの服に異臭がこびりついていることに気づいた。さらにカバンを開けると、なかから、あのヨードチンキの臭いが迫ってきた。二人は臭いが残っているものをすべて棄てた。
 沖縄では、ホテルに二泊したあと、那覇から少し離れている、南風原に落ち着いた。最初の二週間は雑居ビルに入っているアパートにいたが、飲み屋さんの声がにぎやかすぎて、最終的には一戸建てに移った。転出届けのやりとりなどが思うようにいかず、不動産屋さんに保証人になってもらったりしたが、一ヶ月ぐらいで落ち着いた。沖縄は雲が身近に感じられて、その自然観にも癒され、元気をもらった。忠壽さんはパステル画、智美さんはガーゼ染めなどから、少しずつ始められるようになった。
 避難生活は、なんとなく半年ぐらいかな、と思っていた。でも、一時的に帰りたいという思いは、あった。展示品が散乱しているままのギャラリーのことが、頭の片隅から消えなかった。しかし、帰ろうと思うと、犬のハナがネックになった。余震と原発のその後も心配だった。そうしているうちに、智美さんが沖縄伝統のかすり織りの基本を学べることになった。期間は七月から三ヶ月。それが、いわきに帰る目安になった。
 鈴木さん夫妻は九月二十二から十月四日まで、南風原文化センターで作品展を開いた。テーマは「生きるチカラ 福島から沖縄へ 人生の第2ステージで」。忠壽さんは沖縄に来てから描くようになったパステル画、智美さんはインドの刺し子「カンタ」を展示した。題材は主に沖縄の自然。とはいえ忠壽さんの作品は、地震や津波、原発事故を報じる福島の新聞を黒く塗りつぶしたうえに、マスクや長袖で体を覆った人間が描かれているものも含まれていた。半年が経って、やっと原発事故をモチーフにすることができた。智美さんは花火や自然を、刺し子で表現した。
 さらに愛車・ジムニーと日本地図を展示し、車にはメッセージを描いてもらった。会期中には交流会も開かれ、福島市の渡利やいわきの中央台から来ている人とも知り合うことができた。お国訛りが懐かしかった。
■故郷
 二人は十月二十日、ハナを連れていわきへ戻る旅に出発した。フェリーで鹿児島に着いたとき、陸でつながっているいわきが身近に感じた。今度は十日間かけて、長崎、広島、などを回りながら、知り合いの作家のところに寄って旧交を深めて帰ってきた。
 沖縄での日々は、「オキナワ」を肌で感じることができた。そして、基地問題と原発問題は共通している、と思った。
 米軍基地は、一番住みやすいところにある。しかも、不発弾が至る所に埋まっていて、いまだに掘り返す作業が行われている。沖縄の人たちは、その理不尽さを訴え続けている。だから「福島の人も訴え続けなければならない。口を塞いでしまってはだめだ」と思う。
 いまだに日本を「大和」と呼び、ベニイモをサツマイモと言うと「これはベニイモです。サツマイモなんかじゃありません」と言下に否定する沖縄の人たち。それは、蹂躙され続けてきた歴史への反発であり、自分たちの文化に対する誇りともいえる。だからといったけ決して偏屈ではなく、文化が混じり合っているおおらかさや、独特の温かさがあった。
 いわきに帰ってきて感じたのは、あんなにすごいことがあったのに、何一つ変わっていないことだった。いまの状態が異常なのに、こういうところで一生暮らすんだな、とも考えてたりもする。あのヨードチンキの臭いは特に感じなくなったが、不気味な黒い雲はいまもある。そしてときどき、咳と痰が止まらなくなることがある。

                                  





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