福島民報新聞・サロン集「テレビが消えた日」 

2005年11月8日(火曜日) 掲載

テレビが消えた日

テレビを見ないという強い意志が働いたわけでもなく、わが家からテレビが消えて二年がたつ。二〇〇三年十二月も半ばを過ぎたころの出来事。いつもの習慣で仕事が一段落すると、とりあえずテレビのスイッチを入れる。リモコンの電池切れ? 接触不良?
たたいても揺すっても反応がない。それでもあきらめきれずテレビ本体のジャックを入れ直す。結果は同じで黒い箱は沈黙を保ったまま、じっとたたずんでいる。師走からお正月にかけて、特番、スポーツ、バラエティー、映画など見たい番組が山ほどある。
すぐにでも電気屋さんへと思いつつ、今までの生活をふと振り返る。以前からちょっとつづ思っていたことが、今はっきりと頭に浮かんできた。カミさんが言っていることにも生返事で、テレビの画面にくぎ付けになっている自分と、テレビをつけながらスースーと寝ているカミさん。ブラウン管から溢れ出す情報量。見る側がチョイスしなければ、シャワーのように次から次へと流れ出てくる。
テレビを撤去するとその空間がポッカリと穴があいているように、不自然さを感じながら一日が過ぎていった。二日目には、そのポッカリとした空間に観葉植物の鉢植えが、さらに一週間後には、テーブルが埋まっていた。一ヶ月が過ぎ二ヶ月がたつ。テレビがないのもいいかもよ。
しかし、大きな山が立ちはだかった。昨年の八月、アテネオリンピックの開催である。四年に一度のスポーツの祭典。陸上、体操、水泳、バスケットホールなど観戦したい競技がめじろ押し。テレビ、テレビと思いながら、ラジオから流れる中継に耳を傾ける。砂をけって走る足音。ボールをたたく音。観客の声援などから、今どんな状況なのかを想像する。映像が見えない分、ワクワク感や緊張感が膨らみ、戦いの結果に息をのむ。オリンピックという高く険しい山脈を越えると、とてもすがすがしく爽快(そうかい)な気分。当分、テレビの無い生活は続きそうかも。
テレビも、一家に一台どころか各部屋に一台、合計四~五台ある家も珍しくはない。都会でニワトリを飼っているぐらい、テレビを持たない家を捜す方が困難だと思う。わが家からテレビが消えて一年がたったころには、カミさんとの会話も、読書をする時間も着実に長くなった。生活スタイルも、自然に夜型から朝型へとシフトチェンジした。テレビがなくなったことにより、目先や流行に左右されなくなり、ミエナイ部分が逆にミエテきそうな・・。外面的な社会現象ではなく、今を生きているという内面的な広がりを感じている。まして古代人の生活スタイルはどうだったろう。生と死が隣り合っている身近な世界。厳しい世界を自然とともに生きてきたのだろう。食べるために、生きるために狩りをする。五感や山勘、運動能力を磨かなければ生きられない。
現代も生き残るためには、社会的にも精神的にも厳しい時代に何ら変わりはない。しかし、家庭やオフィスもエアコンの効いた快適な生活。利便性が増し動きの少ない生活。飽食・過食の豊かな生活が浸透している。ユル~イ方へ、ヌル~イ方へ、ラク~ナ方へから、ちょこっと流れを変えてみるのもいいかもね。心地よい緊張感や季節感が、サビ付いた感性を呼び起すかも。
今でも、わが家の屋根には台風でも飛ばされることなく、高く大きなテレビのアンテナがかじり付いている。
鈴 忠壽


関連記事