福島民報新聞・サロン集「ビタミンI 欠乏症?」

2006年1月12日(木曜日) 掲載

ビタミンI 欠乏症?

コトコト、トントン、ワンワン、朝の台所からは、いろいろな音と香りが二重奏、三重奏となって伝わってくる。テーブルには、三分つきのご飯とみそ汁、漬け物とヨーグルトが並び、その脇に犬の「ハナ」がちょこんと座る。そんななにげない食事がおいしく楽しい時間である。
物や食品があふれる中、飽食・過食の生活をしている現在、腹八分目と思いつつ、旬の食べ物は特においしくついつい食べ過ぎてしまう。しかし、一年を通して同じ食材が出回り、季節感のない食べ物や残留農薬、食品添加物、鳥インフルエンザ、BSEなど食の安全安心がおびやかされている。
あっちこっちと飛びまわっていた二十歳の出来事だった。体が壊れそうな高熱と激しい下痢の症状。風邪?それとも食中毒?それは、法定伝染病(届け出て隔離するよう法律できめられている伝染病)の赤痢だった。いつ頃の話しなのかと時代錯誤しそうだが・・・。原因はお昼の弁当からの接触感染だった。
わたしに対してある人はいたわり、ある人は邪魔者のような態度で接する。危機的な状況になって、初めてうわべだけではわからない人間の本質があらわになるのかと驚嘆した。検査と治療のため入院することになった。わたしを乗せた車は細い道を通り抜け、古びた隔離病棟の前に止まった。針金入りの分厚いガラスの扉を開ける。病室はすでに飽和状態で、二階の右端の病室は二~三時間前に慌てて片付けた物置部屋だった。カビの臭いと窓はシミやほこり、何十年もの間、時間が止まっていたかのような空間に、ベッドだけが置いてあった。
自分自身ではどうしようもない、長い長い十二日間、不安と恐れといらだちが頭の中でぐるぐると駆け巡る。ベランダからは、別世界が拡がり、一分でももったいないようにせかせかと歩き、活気あふれる町をぼんやりと眺めている自分がそこにいた。行きたい所にも行けず、食べたいものも食べられない。この十二日間、当たり前の生活がどれほど幸せだったか、健康なことがどれほど有り難かったか痛感させられた日々であった。
人間も、無駄と思えるマイナス状態、静の時間が必要なのかもしれない。精神面と肉体面のアンバランス、痛みや悩み、人間の弱さなどなど、当時は思い出したくない体験だった。今思うと、生命力の強さ、しぶとさや親の愛情、家族のぬくもり、周りの人々の優しさをひしひしと肌で感じ、自分だけよければと思う狭い心の視野を広げ、生きるための心のエネルギーを培ったのかもしれない。
現在も、豊かで快適な生活を求めて、大量にモノがつくられ大量に破壊されるサイクルの中で、もっと速く、もっと便利に、もっと効率性を上げるため走り続けている。自然界の砂漠化と同時に、人間界の砂漠化も比例して拡大している。わたしたちも自然と共存していることを実感し、土と触れ合いながら素直に自然から学ぶことが大切なのかもしれない。
自分を愛し、人を愛し、自然を愛する。なにげない気配りと思いやり、普段の生活から、身近なところから初めてみては・・・。積極的に行動しなくとも、言葉にしなくともただ、そばによりそうことで「ビタミンI(愛)」が拡がっていく。
心のカンフル剤「ビタミンI」をお一つどうぞ!
鈴 忠壽


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